世界の片隅で -昼・1-
からんからんと、ドアにつけられた少し古風なアンティークのドアベルを鳴らして、一人の青年が店内へと足を踏み入れた。
ここは、とある町の所謂裏通りに面する小さな小さな店で、特に外には看板も出していないから、例えこの街に長く住んでいる人間でも、普通に生きていればきっとずっと...この場所にこの店があるということすら知らずに生涯を終えるだろうような、そんな店である。
しかし、では裏路地の店らしく、所謂いかがわしいような雰囲気や、明らかに危険な空気を漂わせているのかというとそのようなことは決してない。むしろ、なじんだ古喫茶のような、落ち着いていながら厳かで、そしてどこか懐かしい雰囲気を出している。
店内はこざっぱりと片づけられ、カウンター席の他には三つほどテーブルのある、ほんの小さな...そう、所謂普通の喫茶店に近い。
個人経営の喫茶店にはままあるようにテーブルには特にメニューは置かれてはおらず、ずっしりとした重量のある木のテーブルはきちんと拭き清められていて、真新しさこそないものの、時間の重さを表すようでもあった。
「おや、珍しいですねアーサーさん。こちらにいらっしゃるのは...何か月ぶりでしょうか」
ドアベルの音を聞きつけて店の奥から顔を出した黒目黒髪の、少しばかり年齢不詳の男が慇懃に礼をして迎えた客は、きっちりと三つ揃えを着込んだ英国紳士のお手本のような男であった。
アーサーと呼ばれた彼は、何を言うでもなく手をこちらに挙げて挨拶をし、カウンターの端に腰かけると、
「いつもの」
とだけ告げる。
もちろん、それを告げられる前に出迎える側...つまりは、この店のマスターで有る男の手はするすると動いて薬缶を火にかけ、紅茶の葉を取り出しながらお茶受けであるサンドイッチをさらに並べていたのだけれども。
「お久しぶりですね、アーサーさん。お元気でしたか?」
この店には名前がない。常連であれば『庵』と呼ぶ人もいるけれども大抵は『マスターの店』『あの店』などと呼ばれていることがほとんどである。
内装通りの喫茶店を営んでいるここでは、凝り性でありかつ料理上手でもある店主のおかげで中々に良いブレイクタイムが送れると評判は上々。
けれども店主のこだわりのせいで表通りには店を出すことはせず、裏通りの片隅で看板を出さずにやっているために、新規の客は年に数人付けばよい方だといえた。
その中で、古くからの常連である英国紳士は店主の旧知の友人でもあった。
どちらかと言えばお互い結構な人見知り(片方は解りやすく、そしてもう片方は表情の裏にそれをかくしているけれども)なので、同じ人見知り通し馬があったのか、はたまた店主のツンデレ好きにこの英国紳士がクリーンヒットしたのか真偽は謎であるが、互いに中々居心地の良い関係を作り上げている。
店主の問いかけに、英国紳士は気難しい容貌を少し崩して柔らかな笑みを浮かべて見せた。
「ああ。...ここ最近忙しくて顔が出せなかったんだけどな。まぁそこそこだ。菊も元気そうでなによりだ」
元気というにはいささか顔色の悪さの目立つ英国紳士の頬は、菊が以前記憶するよりも大分こけているし、髪もぱさぱさ、唇も割れている。
服装と清潔感には気を配る人だからぴしっとしてはいるのだけれども、だからこそ余計に、体調が悪いのだろうことは見てとれる。
一杯のストレートティーを飲み干すだろう時間に合わせて、コゼーをかけていたポットの残りはミルクティーにして供する。おそらくまともに食べていなかっただろう胃袋には、固形物から胃粘膜を保護するためにも牛乳が適している。
それに、一杯目と異なり少し濃くなってしまう二杯目はミルクでうまく調整するのがうまい飲み方なのだと、教えてくれたのは他でもないアーサーであった。
さすがに、本場のようにミルクの牛の種類や産地までこだわったりはできないけれども。
「仕事が大分軌道に乗ったんだ。...ま、髭の野郎も少しは役に立つようになったし、久しぶりにまともな休みが取れた」
ふぅ、とこぼれたため息に潜むのは、やはり明らかな疲労の色。
アーサーは、大学卒業と同時に小さな会社を立ち上げた。
苦労に苦労を重ねて在学中に一級建築士の資格を取得した彼は、二学年上で、マルチデザイナーとして活躍を始めていた幼馴染(というと彼は激怒する。腐れ縁と言っておこう)のフランシス・ボヌフォアを引きこんで、デザイン・建築業界に滑り込んだのだ。
幸いにして、彼とフランシスの経営手腕と何よりデザインの腕は確かなものであり、ゆえに会社は何度か荒波にのまれかけながらもこの二年で順調な成長を見せている。
けれども同時に、会社の成長と共に大きな仕事が飛び込んでくることも多くなったのは確かで。
プロジェクトをひとつ成功させるたびにうれしかったし楽しかった。
そして何より、自分たちの力で一つずつ事をなせて行くのは楽しかった。
そんな風に話してくれたのは、何カ月前だっただろうか。
段々ここに足を運ぶ回数も減って、顔を出すたびに痩せて行くように見えたアーサーのことを、やはり菊は気にかけていた。
「ほら、今度駅の近くに新しいビルができるだろ?そこの内装をな、丸々任されたんだ。...菊も、機会があったら覗いてみてくれ」
「それはそれは...ええ、是非拝見しに窺います。あぁ、そう言えば王さんが以前、フロアに使う陶器の注文をたくさん受けたのだと珍しく忙しくなさっていましたけれども...」
「ああ、そうだ。ま、知り合いなら割と融通きかせてもらえるからな。うちはまだまだ小さいし、融通のきかせてもらえるつてって中々ないから、正直助かった」
それでも、いつか訪れた時と同じように、仕事に関しては目をキラキラさせてあまりにも楽しそうに話すものだから、少しは御自愛くださいなんて言葉もかけられなくなる。
彼のことを解りにくくも心配している存在が(それは菊のことではない)いることを、彼はきっと気づいていないし、きっと今伝えても彼に届くことはない。
それに。
『あの時』以来、彼は意図的にか無意識的にか、とかく仕事に逃げ込むようになってしまった。
菊は、彼の腐れ縁であるフランシスとも面識も交流もあるし、フランシスも時折この店を訪れてくれるけれどもアーサーほど頻度が急激に下がることも、顔色が優れないこともなかったはずだ。
忙しくてデートの暇が中々ないとはぼやいていたものの、しっかりと女性の香水のにおいをさせていたことは記憶に新しい。
不器用な方ですね。とは思うものの、その不器用さはとても人間らしくて菊には好ましいものだ。
「少しお時間に余裕ができたのでしたら、是非また御懇意にお願いしますね。また、アーサーさんに季節の茶葉を選んでいただく頃になってまいりましたから」
「...ああ、もうそんな時期か。ああ約束する、今度は近いうちにまた来る。その、菊も風邪とか、気をつけて、な」
御馳走様。
アーサーはそう言って財布からいくらかの金を出し、カウンターに置く。
この店には、メニュー表が存在しない。
それでももちろん商売だからある程度値段というものは存在するのだけれども、それをきっちりと覚えてきっちりと同じ額払っていくのはアーサーくらいのものだ。
例えば。
(兄弟でも、本当に正反対ですね)
いつでも明るく元気で、メニューにも存在しないのに毎度ハンバーガーとシェイクを所望してくる金の髪の青年を思い浮かべて菊は知らず苦笑を浮かべてしまう。
「菊?」
「え、ああすみません。...ではお代は確かに。また、今度はごゆっくりいらしてくださいね」
「ああ、これからちょっと打ち合わせがあるんだけどな。また夜にでも」
そう言って、カランカランと扉を開けて出ていった彼を見送ってしばし。
「アルフレッドさんに見られたら、『君はいつも無茶ばっかりなんだ』って、きっと思い切り顔をしかめられてしまいますよ。アーサーさん」
彼には言わなかったその名前を、ぼそりと呟いて。
きっちりと飲み干されたティーカップを洗う為に、流しへと足を向けた。
補足説明:
ここは名もない裏通りのお店です。
昼は喫茶店、夜はバーをやっています。昼の店主さんと、夜の店主さんは違う人がやっています。
このお話は、昼と夜の店主さんたちと、そのお客さんたちとの物語です。
昼の店主のお菊さんと、夜の店主さんたちは、お客さんに食事だけではなく時間を提供することを矜持としている方ですので、さまざまな悩みを持った人が店を訪れます。
というわけで、見切り発車の物語でございます。
夜の店主さんのお話はまた後日。眉毛さんたちだけではなく、いろんな人と店主さんを絡めて見たいなと思っています。
2010/10/24up