「お待たせしました」
すでにそこにいた赤色の少年にそういえば、そんなことはないよと首が横に振られた。



暁色の翼



グランコクマにいきたいのだと、とてもとても珍しく、自覚した我侭を言った。
出発は明日の昼を予定している。故に、万全を期すだろうパイロットは恐らく、自分たちをグランコクマに送り届けた後にまた此方に戻って兄のギンジとともに機体のメンテナンスをし、さらにはまた明日に自分たちを迎えるために朝早く飛ぶ。
流石に、この我侭を申し出たルークの眉尻も大分下がっていたというのに、飛ぶのが三度の飯よりも好きなのだという天性のパイロットたるノエルは、笑顔ひとつで「喜んで」と受けてくれた。
最近のルークの顔色を理解しているノエルは、少しでも機内でルークが休めるようにクッションと毛布を用意して待っていてくれて、今晩はミュウの面倒を見てくれるという申し出までしてくれた。
本当に、とても気の利く女性だと、かなわないなと思ってしまう。
自分と、そしてジェイドとをグランコクマに送り届けたあとに、少しばかりぐずるミュウを抱き上げてではまた明日にお迎えに上がりますので。と綺麗な礼をとって見せた彼女の凛とした姿は、空を飛ぶ誇りに満ち溢れて格好いいと素直にそう思えた。
いつか教えてくれた、飛行士同士の挨拶として兄と考えたのだというそれを、ぎこちなく真似して見せれば少し優しげな目を見開いたあとに、ありがとうございますと微笑んで彼女は颯爽とアルビオールを飛ばしてすぐに雲の向こうへと見えなくなった。

「さて、何処に行きますか?今日一日...とはいえもう夕方に近いですが、何なりとお供しましょう?」
障気に包まれても尚、水の浄化作用か帝都グランコクマの空気は各地に比べて穏やかで。
障気に蝕まれているルークの体も、それを敏感に感じ取っているのか少しばかり顔色の良さを見て取ってジェイドは目を細めた。
どうしてもグランコクマで一日を過ごしたいのだと、障気中和の計画が立ったその直後にねだられて、ジェイドはそれを承諾した。その理由のひとつに、この地が比較的障気の影響を受けにくいことが上がる。ユリアシティに連れて行くのが一番だろうけれども、できるだけ、この子供の珍しい我侭を聞いてやりたかった。芯を通して、自分の信念を曲げない子供だからこそ、こんな風に我侭と分かる我侭が、とても珍しかったから。
夕方の風には本来、市街地の食事の香りと海の香りが混ざるものだけれども、それがどこか遠く感じるのはやはり障気のせいだろうか。賑わえる都たるグランコクマをも確実に蝕むそれは確かにここにも存在はしていて、それでも道行く人の顔が決して絶望や諦めに沈んでいないのは、この地を治める若き皇帝への絶対的な信頼が成しえるものなのだ。
『屋台で食べ物を買って、一番海と夕日が綺麗に見えるところで食べたいんだ。ずっと、やってみたかった』
「...」
ジェイドは、決してその唇のつむいだ言葉が読めなかったわけではない。
この旅の中で、決してすべてではないけれどもルークの言葉を理解するに十分な読唇術を身につけた自信はある。そうではない、その言葉の中身に、ジェイドは珍しく思考を停止させていたのだ。
一体このグランコクマに何があるのか、ジェイドの頭脳をもってしてもルークの我侭の意図を読めなかったのだけれども、まさか。
『星は見えないかもしれないけど、夜の空を一緒に見たかった』
(嗚呼本当に貴方は...)
その笑顔ひとつで、来てよかったと思えるなんて、末期の思考としか思えない。
きゅっと、控えめに握られた手袋越しの手の先を見ると、少しばかり赤くなったほっぺたの持ち主が居て。
ぐい、と乱暴に(照れ隠しだろう)引き寄せられた手のひらに、少しばかり痛いほどに乱暴に、『ジェイドのおごりだからな!』と書き付けられればもう、笑みを浮かべるより他にないではないか。
「えぇ、構いませんよ。ただし、食べ過ぎておなかは壊さないで下さいね?」
わざとからかう風に言って見せれば、機嫌を損ねたのか膨らんだ頬に、けれどしっかりとつながれた左手が、本当に心の底から、いとおしいと思われた。


本当に、ルークはよく笑い、よく食べて、よく歩いた。
この世界を覆う障気さえなければ、歳相応のその側面にほほえましさを覚えただろう。
考えてみれば、旅の中でルークがこんな風にはしゃぐ様子は、あまり見られはしなかった。
幼馴染であるガイには特に気安く、たまに一緒になって笑いあってもいたが、常にどこか張り詰めていたルークが、少年らしく笑う姿など、殆ど見ることは無かったのだと今更ながらに思い出す。
王族、レプリカ、責務、罪、願い。
いくつもの肩書きを背負っているのだろうその背中は。重圧がどれだけのしかかっているのだろう。それでもその碧は常に、光を失わない。
「全く、どこの子供ですか。...嗚呼すみません、貴方は七歳児でしたね。これは失敬」
からかう口調に、うっさい、と口が動いたのが見えた。拗ねたようにそっぽを向く首、何処となく幼い仕草。
そうだ、それが似合うのだ。
色んな影に隠れて見えなかった、それが彼自身。
ルーク・フォン・ファブレでもアッシュのレプリカでもアクゼリュスの大罪人でもキムラスカの捨て駒でもヴァンの狂気でもジェイドの罪の具現でもなく。
日向が一番に似合う、いたずらが好きで、少しばかりお調子者で、剣術が大好きな。いいところも悪いところも併せ持った、当たり前の一人のヒトであるルーク。
「...『貴方』が、ルーク」
ポツリと呟いたそれは、手を引くルークには恐らく届いては居ないだろう。
ずっと、こんな風に手の届く場所に居たのに見えなかった、暗闇の中の陽だまり。
誰もが、本人すらきっと気づいていないそのぬくもりにいつの間にかひきつけられている、それをある意味で王気、と呼ぶのかもしれない。
ルークと初めてであった日に彼がジェイドの名前を呼んだ。初めはそれが彼に興味を持つきっかけだったかもしれない。
多分、ルークは最初、ジェイドを通してジェイドではない『誰か』に重ねていた。
けれど。
(この笑顔を代わりの誰かに向けられるほど、器用な人間ではありませんからね、ルークは)
其れを知るくらい、いつの間にかこの子供の表情を追い続けてきた自負があるから。
「転びますよ、少しは前を見なさい」
そう告げた途端に、前につんのめる体を抱きとめるこの腕が自分にあることを、今はまず、感謝しようとそう思えた。


『あー、楽しかった』
「そうですか。私はもう筋肉痛ですよ、全く、よくも年寄りを振り回してくださいましたね」
もう、人気のない広場のベンチで、顔見知りの酒場の店主に作ってもらったレモネードを飲みながら笑うルークに、ジェイドはわざとらしく肩を叩いて見せた。
よく言うよ、とその唇が告げるその声が、本当はどんなものなのだろうかなどと、今更ながらルークののどを震わせる音がないことが惜しまれて、ジェイドは少しだけ、目を細める。
波風と、はしゃぎまわったことで少し上がってしまった熱が、手袋を外して額に当てたジェイドの手に伝わってきて、そろそろ私の屋敷に入りましょうと告げた。
ルークも、分かっているのだろう。うん、と素直に頷く様ははしゃぐ中でも決して、明日あることを忘れているわけではないのだろう。ジェイドの言葉に素直に頷いて見せた。
『最後に、ひとつだけ』
これで最後だから、と。 そういって、海を一望できる公園の手すりぎりぎりまで、その身を乗り出し。

「な...?!」

海風に舞う、暁色は美しかった。
さらりと流れる絹糸は、風に運ばれやがて深い深い藍色をした空と海の境へと消え去ってゆく。
微笑んだ碧は変わらず、その手に握られたナイフをなんでもなかったかのように道具袋へと戻して、喉を鳴らして笑った。
聞こえない声が、高らかな笑いを連れてきた。
『なあジェイド、覚えていてくれ。『俺』を』
彼が何と決別したのかは分からない。腰に届くほどの見事な髪を、肩口にも当たらないほどに切り落とした本心は、ジェイドには分からない。
表情が決意のそれから、透明な微笑みに変わって、そして零れ落ちた言葉。

『                   』

最後に呟かれたそれが、彼の心からの願いだとは、容易に知れた。
誰もが、ルークには迷いがないと信じていた。信じている。...そんな馬鹿な話はない。彼は、彼も、一人の人間だ。
自分を拒絶した世界を、救おうと走り回るその心は、多分ずっと迷っていたのだ。
そして今も迷っている。そして探している。
だからこそその呟きがどうしようもなくいとしくて。
決してその存在が消えないように、ジェイドはその身を抱きしめる腕に、力をこめた。
せめてその体の震えが止まるまで、夜が明けないことを、祈った。






よっし!ジェイルクデート編完了です!(待て)
どうしてもグランコクマにしたかったので、ノエルさんに頑張ってもらいました。
そして断髪。これは外せません。
そして次は、ある意味でずっとクライマックスにするつもりでいたレムの塔のお話です。
もしかしたら、続きをお待たせすることになるかもしれません。最終話までは、多分もう、あと少しです。
2009/8/16up