上も下も、人間が勝手に定義した、所詮重力に縛られるものの感覚でしかない。
空中に放り出されて、落ちる方が下。...そんなの、大気圏を抜け出てしまえば全くもって意味のない設定だ。
それを、身をもって体験しながらジェイドはため息をついていた。
目の前には、明らかに人間ではない...それでも、どこか人間に似せようとしている音素の塊。
これが、第七音素...ローレライなのだろう。
昔の自分で有れば、きっとこの存在との邂逅には知的興奮を抑えきれなかったに違いない。
相手には敵意も思惟も感じられないのに、まるで肌を焼かれるような圧迫感は、まさに人にはあらざる存在だと体感までも見せつけてくる。
常人で有れば、気押されてしまってもおかしくない。また、意思を強く保たなければ自分の存在すらもあやふやになりそうなほどの...絶対的な『質量』
けれども。
今のジェイドにとっては、第七音素の意識集合体よりも優先されるべき事項...つまりルークの存在があったために、それ自体には感情を揺さぶられることもなかった。
ジェイドの腕の中には、眠り続ける、短い髪の赤毛の青年。
先に戻されたのだろうアッシュの姿は今はここにはない。...つまり、ジェイドの頭のはじき出したものは、確かにこのローレライが『ルーク』の存在を繋いだのだろうという答え。
『...スコアを覆し、そして与えられた業にまで打ち勝って見せた。...驚嘆に値する』
厳かな、人ならざる声。
それは殆ど感情らしい感情をのぞかせはしなかったけれども、確かな音となってジェイドの耳を打つ。
静かに、続きを促すように目を細めて見せれば...おそらくはそれを感じ取ったのだろう、ローレライは言葉を続ける。
『かの世界よりの我は、この世界のルークを生かした。そして、この世界の我はかの世界のルークを繋いだ。...直に目も覚まそう』
ローレライから、確かなその答えを受けてようやっと、ジェイドは少しばかり肩の力を抜くことができた。
例え器だけが無事だとしても、『魂』がなければそれは別物である。
かつて、恩師に施してしまった禁呪でもってそれを知っているからこそ、この『ルーク』が本当にルークで有るのか、確証が欲しかった。
するり、と。
不格好な人間のような手が、ルークの頬に延ばされ。
そうして、するりと子供にするそれのように、撫でて離れてゆく。
殆ど粘土人形のようで表情の解らないローレライが、どこか穏やかに微笑んだように見えた。
まるで人の親のような、そんな慈愛の満ちる、顔のような。
『魂の、音素の欠片となってもなお、お前のもとに残ろうとしたからこそ繋ぎとめられた。...我は今より音譜帯へと登る。光たちに、幸あらんことを』
最後に、その言葉を残して。
音素の主は、轟と音を残し、空へと登って消えた。



―――ここにいてもいいよ。いいんだよ。
誰かが、言ってくれた気がした。

ずっと、意識はぼやけたままだった。
何をして、何がどうなって、今がいつで、自分が誰なのか。
そんな、あたり前のことすら認識できずに、ただ一つ、どうしてかもわからないままに叫び続けたのは、
 はなれたくない
その言葉。
そうして。ずっと、ずっと心地よい心音の隣にいたような気がする。
青と、赤の。
大好きな色の。
そして、大好きな鼓動の。
そうして。
自分の形も忘れて心地よい中で眠ろうとしたところで、不意に、手を差し出された。
赤い髪と、緑の瞳。
『過去の自分』と同じ顔をした、少年。
―――言いたい言葉は、お前の言葉で言えよ。
いたずらっぽい顔をしたその少年の名前が、自分にはどうしてもわからない。
でも、不思議と少年の言っている言葉は、ぼんやりとした頭に落ちる氷のようにきぃんと清涼を与える。
そうして。
いつの間にか少年は消えて、目の前には赤い目と飴色の髪、青い服を着た男がいた。
特に表情らしい表情も浮かんではいないけれども、でも、とても優しい目だと感じる。
少し離れたところから自分を見ているその瞳に、少しずつ何かが溢れてくる。
ぽろり。
熱いものが、瞼を焼くようにこみあげて。
まだ何もわからないままであるのに、ただぼろぼろと目の前をにじませてゆく。


「だいすき」


名前を思い出すよりも、何よりも先に。
その言葉が溢れだして。

「大好きだよ、ジェイド」

そうして、ぱちんと泡がはじけるように、言葉が溢れ。
大切な大切なその名前を呼んだと同時に、意識が白く塗りつぶされた。



「...本当に、この子供は...どうにも、人をかき回すのがうまいようですねぇ」
ローレライが音譜帯へと登ると同時、おそらく二人をオールドラントまで送ってくれたのだろう。
セレニアの花畑の中で、腕の中のルークの様子を見ようと顔を覗き込んだところで、寝ぼけたような寝言にジェイドは本気のため息をつかざるを得なかった。
ふにゃりと、今までで一度も視たことのなかったように幸せそうに笑って。
この世で一番愛しいものを呼ぶように、
『大好きだよ、ジェイド』
などと言ってのけるのだから、たちが悪い。
はじめて、彼の意思で彼の声で聞いた言葉が、それだなんて。
「...陛下には、絶対に見せられませんね」
今、ジェイドは間違いなく顔が真っ赤な自覚がある。
この年になって、照れて顔を赤くすることがあるだなんて思ってもみなかったが。
否、この年ではなくとも、誰かの言葉で顔を赤くすることなんかあると思ってもみなかった。
熱い自覚のある頬は、しばらく収まってくれそうにもない。
「...早く起きてください。出来ればあなたの目を見て、もう一度その言葉を聞きたいですから」
月明かりに咲き誇るセレニアの中で眠るルークは、さしずめ眠り姫だろうか。
眠り姫の唇ではなく、ジェイドはその朱色の髪を一束手にとって、心よりの口づけを施した。



「...あ」

草原がある。
そして、目の前には川が流れている。
とても穏やかで、とても優しい風景だ。
川を挟んで向こう側には、とてもよく知り、そして、かつて一番に大切に思っていた人がいる。
少し寂しそうに、そしていつも通り穏やかに笑うその瞳。
その寂しそうな顔を何とかしたくて、川に足を踏み込もうとしたその時。
『駄目ですよ、こちらに来てはいけません』
制止を受けて、足先が水に触れたところで踏みとどまった。
どうして。だって、せっかく会えたのに。
そう伝えたくても、胸が痛くて言葉にできない。
やはり寂しそうに笑ったまま、川向うの人は続けた。
『随分、頑張ったようですね。...要領の悪いあなたにしては上出来です』
「...要領悪くて悪かったな...」
『いつも』の軽口に、ちょっとだけ緊張をほぐしてそう返せば、少しだけ、赤い瞳に刻まれる温度が柔らかくなる。
『...私にはできなかった。...でも、『彼』はあなたを手放さなかった。...どうぞ幸せに、貴方は馬鹿みたいに笑ってるくらいがちょうどいいんですから』
「え?」
『もう時間です、お行きなさい。...いいですか、振り返ってはいけませんよ』
その言葉で、これが『彼』との最後の別れだとルークは悟った。
今までも、知らず知らず、夢の中で自分を助けてくれた存在。
離れていても、ずっと自分を守ってくれていた存在。
かつて、誰よりも大好きで、愛して、愛された存在。
それでもいま眼前に横たわる別れに、ぼろぼろと涙がこぼれて、鼻の奥が痛い。
「...だいすき、だった」
嘘は言えない。
本当のことしか、言えない。
言葉を失って、言葉の重み、大切さを身にしみて知った。
だからこそ、伝えられる言葉に重みがあることを、知ってしまったから。
『ええ、その言葉だけで十分です。』
過去形になってしまうその意味を、きっと『彼』は解っている。
でも、大切だったことは変わらない。
約束を守れなかったことを、心から申し訳ないと思う。
そして。
これから先、自分の時間を歩んでいくことを...彼の隣を歩けないことを。
『...愛していましたよ』
その言葉に背を向けて、歩き出す。
振り返ることは、もうできない。
もう、帰ることもすがることもできない、故郷だから。

さようなら、ジェイド。



そうして。
スコアと、第七音素の源たるローレライを地殻から失った世界に、二人連れの旅人が現れる。
彼らが世界をめぐり、そして仲間たちのもとへと帰ったその先。
また世界は、新しい物語を紡いでゆく。
まだ名前のない、無題の物語を。




<END>


2010.9.12up