正直、平日の楽器店というものは、暇である。
アーケード沿い、中々好立地のビルのフロア三階までを所有し、一階にピアノの展示と楽譜、二階にギターなどの弦楽器及びマッピや弦、メトロノームやグリスなどの小物類。三階は音楽サークルなどの練習場や、小さなコンサートなどのための防音フロアだ。また、このフロアは音楽教室などにも利用されている。
スタッフは、学生などのアルバイターも一部はいるが、基本的に調律技術や演奏技術を持った音大出やなにやらの関係者スタッフが多い。実際、スタッフの一人であるレイヴンも、ピアノの調律の仕事も受け持っている。昔取った杵柄、時折ピアノ教室で生徒を受け持つこともある。
まぁ、それはいい。
(結局のところ、暇なのよねぇ)
ふわぁ、とレイヴンはあくびをかみ殺す。今更、店の配置やらなんやらを再確認しなくたって倉庫の楽器の配置すらも暗唱できる。つまるところ、暇つぶしだった。
こんなところをもし、オーナーのアレクセイやら副店長のクロームやらに見つかれば睨まれることは必死だろうが、何せ平日、真昼間からわざわざ客のいない店に来るほど彼らは暇ではない。人件費を考えても、この時間は1フロアに一人が妥当な線だ。
新しく入荷したスコアを並べたり、手遊びに展示のピアノを調律してみたりしても、矢張り暇だ。
時折、まだ講義までに時間があるらしい大学生の姿を見掛けはしたけれども、大抵スコアをぺらぺらとめくって、気に入ったものがあれば買ってゆく、それくらいのもので。
最近の若い子は(というと、妙に自分がおっさんになった気分がするが)、余り店員に話しかけられるのが好きではないのか、事務的にレジうちをするくらいのもので、相談を受けることは余りない。あるとすれば、ピアノを始めたばかりの子供を連れた母親くらいのものだが、学校があることを考えればこの時間からそういった客層が来ることはない。
つまり、暇だった。
さすがにレジで頬杖はまずかろう、店の入り口は展示のピアノがよく見えるように前面ガラス張りなのだから。さりとて、瞼が下がってくるのをこらえているということもあって、若干ぼんやりしてしまうのは致し方ない。何せ、店内のBGMはクラシックなのだ、其れも飛び切りの癒し系。
(あー...せっかくピアノあるのに、どうしてこう...CDなんぞ聞いてなくちゃいけないのかねぇ)
実のところ、それは普段から感じていた不満のひとつであった。
電子ピアノはともかくとして、展示のグランドピアノやら、アップライトやらは欠かさず毎朝音をチェックして、出来る限りの状態にしてあるというのに。耳に入ってくるのは、無難と言うのか、スピーカーを通してしまうからなのか如何にも味気のない音。最近の音楽CDというものは、例えばオケでも全体の楽器の音が逐一よく聞こえるようにわざわざ編集しているものばかり存在しているのだから、どうにも技術の進歩と言うのもよしあしといえる。
せっかくなんだから、可愛がっている子たちの音を聞きたいと思うのは普通だろう。
試し弾きのためのピアノなのだから、思いっきり弾いて欲しいと思っているのだが、矢張り最近の若い人たちは恥ずかしがりやなのか、せいぜいが小学生がうろ覚えの曲を叩いていく程度のもので。(文字通り、弾いていない、あれは叩いていると断言させてもらおう)
はぁ、とため息をつきながら(レイヴンとてピアノ弾きの端くれ、楽器に愛着くらい、ある)、手遊びにスコアを直そうかと立ち上がったところで、来店を知らせる小さな鈴の音が耳に飛び込んできた。
「ああ、いらっしゃいま...」
振り返って、決まり文句を言おうとしたところで。
(...)
たっぷりと、レイヴンは言葉を失った。
体感時間としては非常に長かったその沈黙は、流石に店員としての意地か、時間にしてみればほんの数秒で、いらっしゃいませといいなおすものの、どうにも視線が離せない。
恐らくは学生だろう、若い...そして飛び切り美人(男性に美人という形容詞を当てはめていいものか悩むところだが、それくらいしか当てはまるものを探せない)の、バンドでギターやボーカルなどをやっているのが飛び切り似合いそうな、長身の青年。(雰囲気がある、というのだろうか)
細身のTシャツにジーンズというラフな格好、加えてジーンズに付けられているチェーンがアクセントになって、まるでモデルのようだ。そこらの女の子よりもよっぽど綺麗な黒髪は、暑いからだろうか無造作にひとつにくくられて背中に流れている。後れ毛のあるうなじに目が吸い寄せられるのは、男にしては随分と、華奢でほっそりとした首をしているからだろう。
これ以上凝視してはまずいかと(色んな意味で)、視線を逸らしかけたところで、視界の端にそのえらく美人な青年が、こてりと小首をかしげるのが、見えた。
「ええと、スコアお探し?」
店内を、戸惑った様にするりと流れた紫電の視線に、おや、と思って声をかけてしまった。(大抵、客は皆目的の場所にすぐに足を向けるものだから)
もしかして、この店に来るのは初めてだっただろうか(レイヴンがこの、美人さんを見るのは間違いなく初めてだったが)。店内はそれなりに広いので、初めて来るお客は少し戸惑っているのはまま見かける。
レイヴンの問いかけに、少し視線をさまよわせた青年に、ああもしかしてと二階を指し示してみた。
「それともギターかしら。それだったら上の階よ?」
「...あ、いや。ちょっと...その、ピアノ触ってもいいか?」
ああ、笑
うと随分と幼くなる。
どきりと波打った自分の心臓の音は出来るだけ聞かなかった振りをしておこう。何を、自分は今、男にときめかなかっただろうか。(そんなことはないそんなことはないちょっとこの青年が、あまりにも美人さんだったからだ。ああこれで胸が膨らんでいたら本当にストライクゾーンだったのに)
どうやら、ピアノの試し弾きに来たらしいこの青年に、どうぞどうぞとレイヴンはにっこり笑ってみせる。久方ぶりの『お客』だ、もっと気軽に弾いて欲しいと常々思っていたので、レイヴンにしてみれば大歓迎である。
「せっかくだからグランドはどう?この時間だったら早々お客さんも居ないし、好きに弾いて構わないわよ?」
そういって、店の中央に設置してある黒のグランドピアノを指し示してやれば、その青年の顔が輝くのが分かった。やはり、可愛らしい。
学生であれば、幾ら欲しくても電子ピアノ、せいぜいが中古のアップライト。あまり触れる機会がないだろうグランドは、手を伸ばしたくても中々触れるものではない。
いいのか?と小首を傾げてくる様が妙に可愛くて、笑いをかみ殺しながらどうぞどうぞとレイヴンは椅子を引いてやる。長身の青年には少し高いだろうか。
とすん、と腰を下ろして、慣れたように鍵盤に軽く指を滑らせ、感触を確かめるその仕草に、またレイヴンの心臓がどきりとひとつ大きく鳴る。
座った拍子に、さらりと背中に流れる黒髪が、揺れた。
(指、長っ!!)
ああこれは恵まれた手だ、とこっそりとレイヴンは嘆息する。ゆうに1オクターブ半は届くだろう、白く、細く、けれどしなやかな筋肉のついたピアノ弾きの手だ。
聞きなれたカノンをさらりと数小節流した後、紫電がくるりと、レイヴンを捉えた。
「いいな、こいつ」
「はい?」
一瞬、何を言われているか分からなくてレイヴンは本気で首をかしげた。
けれど、ぽーんとひとつ、ヘ音を青年の指が奏でたことで、ピアノの状態を言われているのだと気づいた。また、どきりと心臓が鳴る。(うるさい、うるさい)
にかり、と形容するが正しいなんとも男らしい笑みで、また、ぽーんとひとつ音が鳴った。
「甘すぎなくて、いいな。...癖、あるけど」
「あー...そう?」
内心、分かってもらえたのが嬉しくてガッツポーズをとりそうになるのをこらえなければならないのが辛かった。初対面、こっちは店員なのにそんな不信な動きできようはずもなく。
青年は、またピアノに向き直ると、次はペダルを踏みながらまた、聞きなれた曲をつむぎ始める。
奇しくも、今さっき店のBGMになっていた...そう、確かこれはとても有名な、ショパンの別れの曲。
青年の音は、一言で言えばとても癖のある音だった。
店に流れているBGMが、例えてきっちりと燕尾服を着込んだフォーマルな、格式高いものだとするのであれば。
青年のそれは、気負わない、自然体...癖の残った音は、一粒一粒が、退屈な音を聴きなれていた耳と、頭をハンマーで殴り倒してゆく。
コンテストの審査員であれば、あるいは顔を顰めたかもしれない彼の音は荒削りで、だがそれがどうしたと鼻で笑って見せるような。
曲調はとてもゆったりとしていて、激しい要素なんて何処にもないのに。
彼が弾くだけで、まるで初めて聞く曲のように、聞こえた。
出あったばかりなのに別れの曲なんてどうなのよ、とか思ってしまう自分に思わず笑ってしまう。
もっと聞いていたい、と心から思った。
TシャツGパンのピアニストはとくれば、実に楽しそうに一曲を弾き切って、ああやっぱグランドはいいなぁなんてのんきな感想をあげている。相変わらず店に客は青年一人だけ。レイヴンは、こちらを振り返った青年に、大きなウインクを飛ばしてみせた。
「好きなだけ弾きなさいな。...いい腕してるじゃないの、あんちゃん」
「褒めても何もでねぇよ。下手の横好きってな。...あー、何か、リクエストとか、あるか?」
「そうねぇ...ムーンリバーとか」
「身分違いのラブストーリーってか?...随分と乙女チックだ」
「いいじゃないの、好きなんだもの」
「ま、いいけどな」
先ほどであったばかりなのに、妙に気安い軽口の応酬は心地よかった。
また、滑り出した白い指と、そしてそこから奏でられる音に、レイヴンはこっそりと口角を吊り上げる。
今この音を聞いているのは自分だけ。この青年のこんなにもきらきらしい音を知っているのは、自分だけ。
その事実が、どうしようもなく心地よくて。
「なんだったら、閉店の後とかまた来る?片づけするまで、好きに弾かせてあげるけど?」
もう少し聞いていたいだなんてセリフはどうにも吐けない自分の、精一杯のセリフを、この曲が終ったら呟いてみよう。
それは、ありふれた平日真昼間の、ちょっとした出来事。
TシャツGパンのピアニスト
個人的に、アップライトよりグランド、グランドは狭く開けて、ついでにキーが重いほうが好き。
何で別れの曲かって、「出会ったばかりなのに別れの曲なんて...」とおっさんにいわせたかったそれだけ。とってもゆったりとした優しい曲なので、私は好きです。
ユーリ君はきっと指の力もあるでしょうから、アップテンポだろうとラフマニノフだろうとさっかさっかと弾いてくれると思います。でもコンテスタントではないといい。
TシャツGパンだと、青年胸チラできないとかそんなこと思ってた私は一遍しんでこ(ry
エセ文章書きなので、自己満足にてごめんなさいorz
絵茶会にて、すばらしき設定を(ユーリがTシャツGパンでピアノ弾いていたらいいよねっていう)いただいたので、調子乗って書いてみましたなお話でした。
2009/9/27up